映画ちいかわを、小学生の子供と観に行きました。

帰り道、子供がソフトクリームの話をしている横で、私のほうは少し放心状態でした。

ちいかわたちが島でわいわいと楽しくやっている映画。

そのつもりで座席に着いたのに、家に着いてもまだなんか気になっている…。

 

気になってSNSでちいかわを調べてみたら、出てくるのは神話の話ばかりでした。

ギリシャ神話だ、いや日本の言い伝えだ、あれは失楽園だ、と。

正直なところ、最初は大げさな読みすぎだろうと思っていましたが、一つずつ確かめていくと、これがどれもそこそこ筋が通っているところが面白い。

そこで今回は、映画ちいかわの神話ネタについて色々とまとめてみました。

ギリシャから来たもの、日本から来たもの、聖書から来たもの。

なお、映画の結末に触れる箇所がありますので、これからご覧になる方はご注意くださいね。

 

ちいかわのセイレーンの正体は?

セイレーンがギリシャ神話から来ていることは、なんとなくご存じの方も多いと思います。

歌声で船乗りを惑わせる、あの人魚です。

ところが、元のギリシャ神話を調べると話が違います。

ギリシャ神話のセイレーンは、上半身が女性で下半身は鳥。

つまり人魚ではなく、もともとは鳥の怪物でした。

 

魚の姿で描かれるようになったのは、七世紀から八世紀ごろだそうです。

羅針盤ができて船が沖まで出られるようになったからではないか、という説がありました。

岸の岩場にいた鳥が、船が沖へ出るようになるにつれて、海の魚に描き替えられていったわけです。

 

有名なのは、ホメロスの叙事詩に出てくるオデュッセウスの話でしょう。

彼は部下の耳に蜜蝋を詰めさせておきながら、自分は歌を聴きたいがために、縄を絶対に解くなと命じたうえで体をマストに縛りつけさせました。

聴いてはいけないと分かっているものを、それでもどうしても聴きたい。

人間のこういうところは、二千数百年前から何も変わっていないんですね。

 

セイレーンには、もっと気の毒な逸話も残っているのです。

女神ムーサたちと歌の勝負をして負け、勝者の冠を作るために羽をむしり取られた、という話が残っています。

さらにアルゴー船の一行が通りかかったときには、竪琴の名手オルペウスの演奏に歌をかき消され、船を素通りされてしまいました。

歌の力だけで生きている存在が、歌で二回も負けている。

そのうえ歌を聴かれて相手に生き延びられたら、自分のほうが死ぬ運命になっていたといいます。

だからオデュッセウスの船を取り逃がしたセイレーンたちは、そのまま海へ身を投げた。

ここまで来ると、怪物というより、追い詰められた側の話に見えてきませんか。

映画のセイレーンは、恐ろしいのに気の毒でもあるという、妙な描かれ方をしていました。

原典のセイレーンも、もともとそういう存在だったのです。

 

ちなみに雑学をもう二つ。

警報のサイレンは、このセイレーンが語源です。

そしてスターバックスのロゴに描かれている、あの二本の尾を持つ女性もセイレーン。

創業時のスタッフがノルウェーの古い木版画で見つけたものが元になったと言われています。

毎朝のコーヒーの紙コップに、あのセイレーンと同じ名前が印刷されているわけですね。

 

人魚の肉は日本の言い伝え?

人魚の肉を食べると、年を取らなくなる。

あの設定も西洋の神話から来ているのだろうと、私はなんとなく思い込んでいました。

ところがこれだけは、ヨーロッパの産ではありません。

日本の言い伝えです。

八百比丘尼と書いて、やおびくに。

 

ある男が、村の寄り合いの夜に、竜宮のような不思議な場所へ招かれます。

そこで出された料理のなかに、人魚の肉が混じっているのを見てしまう。

気味が悪くなって箸をつけず、土産だと言って包んで持ち帰りました。

その包みを、留守番していた娘が開けて、中身を知らないまま口にしてしまいます。

それきり娘は、年を取らなくなりました。

 

八百歳まで生きたという話がいちばん多く伝わっていますが、地域によっては二百年、四百年、千年と、桁までばらばらに揺れます。

最後にたどり着いたのが若狭、いまの福井県小浜市。

そこの洞窟に入ったきり、出てこなかったといいます。

祀られている像は、白玉椿の枝を手にした姿です。

白玉椿姫という呼び名まで残っていました。

映画に椿が出てきたのを覚えている方は、ここで少し嫌な感じがしたかもしれません。

 

もうひとつ驚いたのが、この話の広がり方です。

全国二十八の都県、百二十一か所。

多いのは石川、福井、埼玉、岐阜、そして愛知。

ちいかわの島編は愛知がモデルらしい、という話が出ていることを考えると、この並びは気になります。

文献に名前が出てくるのは一四四九年から。

応仁の乱の十八年前ですから、日本人はずいぶん昔からこの話をしていたことになります。

 

この言い伝えでいちばん怖いのは、ここから先です。

八百比丘尼の娘は、人魚の肉だと知らずに食べています。

悪いことなど、何ひとつしていません。

それでも、まわりが順番に老いて死んでいくのを、ひとりで八百年見送りました。

映画のふたりは、友達を助けたい一心で、人魚を殺して食べています。

知らずに食べた娘と、覚悟して食べたふたり。

知らずに食べても、覚悟して食べても、最後にひとりで残されるのは同じなんです。

人魚の肉は、口にした事情がどうであれ、呪いにしかなりません。

映画が持ち出すよりずっと前に、五百年以上前の日本人がそう決めていました。

 

キメラの名前もギリシャ神話

ここまで映画の話ばかりしてきましたが、神話から名前を借りているのは今回に限りません。

原作を追っている方には、もっと身近な例があります。

キメラです。

あれもギリシャ神話から来た名前で、原典ではキマイラと呼ばれています。

 

ホメロスが伝えた姿は、頭が獅子、胴が雌山羊、後ろが龍で、口から火を吐いては人や家畜を焼いたそうです。

ヘシオドスのほうでは、獅子と雌山羊と龍の頭が三つ並んでいます。

古い話ですから、語る人によって形が変わる。

面白いのは語源で、ギリシャ語の「雌山羊」から来ているといいます。

獅子も龍も持っているのに、名前を取ったのは山羊でした。

退治したのは、天馬ペガソスに乗ったベレロフォンという英雄。

もとはヒッタイトの神話で季節を表す獣だったという説もあれば、土地の火山を怪物に見立てたのだと読む人までいるとか。

 

では、ちいかわのキメラはどうでしょうか。

こちらは、ただ生き物が混ざった姿というわけではありません。

もともと何かだったものが、作り変えられた姿として描かれています。

元をたどればちいかわ族だったのではないか。

読者のあいだでは、ずいぶん前からそう言われてきました。

だとすると、討伐に出かけて倒している相手は、かつての仲間かもしれない。

しかも一度そうなったら、戻る方法が事実上ありません。

 

草むしりで日銭を稼ぎ、討伐で危ない目に遭い、隣にいた誰かがある日キメラになる。

毎日かわいい絵で更新されているあの漫画は、もともとこういう世界の話で、映画で急に怖くなったわけではありません。

ナガノ先生は、ずっと前から神話の名前を借りていました。

 

島二郎はポセイドンなのか?

映画を観たあと、たぶんいちばん検索されているのがこの人です。

腰にエプロンを一枚巻いただけで、森の奥に食堂を構えているあの島二郎さん。

客はろくに入っていません。

それなのに海へ潜れば、あのセイレーンと正面からやり合ってしまう。

どうにも、つり合いが取れていないのです。

 

そこで原作に出てきた当時から言われているのが、あれは海の神さまではないか、という見方でした。

ギリシャ神話のポセイドンです。

挙がっている根拠は、こんなところ。

  • 二郎という名前は次男に付くことが多く、ポセイドンも兄のハデスと弟のゼウスにはさまれた真ん中である
  • 腰布だけを巻いたポセイドン像と、エプロン一枚の後ろ姿がほとんど同じ
  • 水を操り、海の中で長いこと動き回れる

 

しかもこの説には、現実の裏づけまで。

愛知県西尾市の佐久島に、島二郎そっくりの海神さまの像が立っています。

松岡徹さんという作家の作品で、同じ島には人魚の石像まであるそうですから、島編は愛知がモデルだという話が出てくるのも無理はありません。

 

ところが、です。

公開後のインタビューで、ナガノ先生は島二郎の見た目をこう説明していました。

頼りになりそうな雰囲気になるよう考えていった結果、ああいう感じになりました、と。

ポセイドンという名前は、一度も出てきません。

 

八月に入ってからは、神さま説とはまるで違う読みも出てきました。

島二郎は作中で見返りを求めずに与える行動しかしておらず、しかも彼が出す貝汁の貝は、自分で海に潜って採ってきたものでした。

歌に実らせてもらった作物で食べていた島民と、自分の手で海から取ってくる男。

あの貝汁は、セイレーンの恵みに頼らない、島そのものの豊かさだった。

だとすれば彼は神さまではなく、あの島でいちばん島民らしい島民だったことになります。

神さまか、地に足のついた住人か。

エプロン一枚のおじさんひとりに、これだけの説が集まっています。

ちなみにナガノ先生は次回作をやるなら島二郎を主人公にしたいそうで、島二郎とオデが取っ組み合いの喧嘩をする話がいい、とのことでした。

それはそれで、また考察が盛り上がりそうな企画だと思いませんか。

 

島のうたに隠れた8文字

映画をご覧になった方なら、あの歌を覚えているはずです。

島民たちが浜辺で歌う、食べ物の名前がひたすら並んでいく、あの歌。

楽しげな歓迎ソングとして聴いていた方が多いと思います。

私もそうでした。

 

ところが公開からしばらくして、歌詞を縦に読んでいくと別の言葉が浮かび上がる、という指摘が広まりました。

歌に出てくる屋台の品を、順番に見てみましょう。

おいしい屋台、わたあめ、ビール、じゃがバター、たこやき、すきやき、ケバブ、てりてりソースの焼きそば。

頭の文字を拾っていくと、こうなります。

お、わ、び、じゃ、た、す、け、て。

おわびじゃ、たすけて。

 

公開直後にネットで広まっていたのは、じつは後半の「たすけて」の四文字だけでした。

そこへ前半の「おわびじゃ」がくっついたのは、公開の翌日、七月二十五日のこと。

気づいた人の投稿が、そのまま広がっています。

 

四文字が八文字になった瞬間に、歌の意味がまるごと変わってしまいました。

助けてほしいと叫んでいるだけなら、それは一方的に襲われている被害者の歌です。

けれど詫びが先に来るのなら、あれは何かをしてしまった側が歌っていたことになります。

 

もっとも、誰の詫びなのかについては、いまも読みが割れたままです。

島民全体がセイレーンに向かって謝っている、という読み方。

人魚を殺したヒトハが、フタバを助けてほしいと願って作った歌なのだ、という読み方。

仲間を失ったセイレーンの側の叫びだ、という読み方まであります。

わたあめを「わ」ではなく別の区切りで読むべきだ、という異論も出ていたようです。

念のために書いておくと、これは公式が発表した設定ではありません。

観た人たちが歌詞を並べて見つけた読みです。

 

それでも、あの陽気なメロディが妙に耳に残り続けた理由については、私はこれで腑に落ちてしまいました。

明るいだけの歌なら、あそこまで頭にこびりついたりしないでしょう。

楽しくて歌っていたのではなく、必死で歌っていたのだとしたら。

何も知らずにニコニコ聴いていた自分を、ちょっと殴りたくなりました。

 

令和の失楽園という読み方

この話、どこかで聞いた覚えはないでしょうか。

豊かな土地があって、みんなが穏やかに暮らしている。

ただしそこには、口にしてはならないものが一つだけ置かれている。

それを口にした途端に居場所は失われ、当人たちは外へ放り出される。

アダムとイヴ。

エデンの園で禁断の果実をかじって追放された、あの話の形がそっくりそのまま入っているわけです。

だから公開直後から、あれは令和の失楽園だという言い方が出ていました。

 

ただし、ちいかわ版のほうが逃げ場がないのです。

アダムとイヴは、蛇にそそのかされて誘惑に負けました。

ところがヒトハとフタバのほうは、目の前の友達を助けたかっただけなのです。

誘惑なら断ればよかったで片づきますが、目の前で友達が死にかけているときに何もするなと、いったい誰が言えるでしょうか。

 

八月に入ってからは、もっと踏み込んだ考察も出てきました。

リアルサウンドに載った考察では、セイレーンを被害者とも加害者とも決めきれない存在として扱っていました。

歌で作物を実らせているあいだ、セイレーンは島にとって恵みをくれるありがたい相手でした。

ところが仲間を食べられて島民を襲い始めたとたん、討伐しなければならない相手へ変わってしまいます。

恩恵が脅威に裏返れば、共存していた相手はたちまち討伐の対象になる。

これは怪物の話でしょうか。

ここ数年、熊や猿のニュースで何度も見てきた話と、そっくりではありませんか。

 

もう一本、こちらはさらに手厳しい読みです。

誰も悪くなかったから悲しい、という受け取り方に対して、みんな悪かった、だから終わらないのだ、と切り返す考察がありました。

根拠として挙げられているのは、エンドクレジットのあとに置かれた場面でした。

あの二人が逃げ込んだ島へ、セイレーンが静かに近づいていく影が描かれていました。

罰はまだ、始まってすらいない。

この考察では、ギリシャ悲劇との対応が一つずつ挙げられていました。

洞窟を抜けて地下の川を小舟で渡る場面は、死者の国へ降りていく道そのものだ、と。

人魚が三人で和音を作っていたのは、ギリシャ悲劇の合唱隊にあたる、と。

そして最後に追いかけてくるセイレーンは、復讐の女神だ、と。

 

なかでも怖かったのは、法廷がない、という指摘です。

ギリシャ悲劇では最後に公の場での裁きが用意されていて、それが報復の連鎖を断ち切る仕掛けになっています。

ところがあの島には、話し合いの場が最後まで一度も作られませんでした。

言葉で解決しようとしたラッコが、真っ先に連れていかれてしまいました。

対話の窓口が、いちばん最初に閉められている。

 

同じところに引っかかった人の声が、これでした。

 

そう言われてしまうと、あの後味の悪さに説明がついてしまうのです。

 

ナガノ先生は何と言った?

ここまで散々書いておいて何ですが、大事なことをひとつ。

ナガノ先生本人は、神話を下敷きにしたとは言っていません。

描きたいのは重いテーマではなく、何かが起きたときにキャラクターがどんな顔をしてどう動くか、そちらのほうなのだという趣旨でした。

 

八月十日に公開されたロングインタビューでも、話の中心にあったのは制作現場のことです。

今回は完全監修という形で関わり、悔いがないようにしたかった、最初で最後と思ってやりきったつもりだ、と。

眉毛の角度や口の開き方といった表情を細かく確認する一方で、間や尺については監督の判断を重んじたそうです。

セイレーン役の声を選ぶときの決め手は、オーディションのテープで聴いたビブラートだったといいます。

神話の話は、ついにどこにも出てきませんでした。

 

なんだ、それなら全部こじつけじゃないか。

そう思われた方もいるかもしれません。

 

 

でも私は、むしろここがいちばん面白いところだと思うのです。

作り手が仕込んだつもりのないものが、よその国の古い物語とここまで揃ってしまう。

禁忌を破ること、永遠の命が救いにならないこと、罪に対して罰が理不尽なほど重いこと。

ギリシャの詩人も、若狭の村人も、聖書を書いた人たちも、結局みんな同じことで悩んでいたわけです。

人間が何千年も答えを出せずにいる問題に、素直に物語を作っていったらぶつかった。

たぶん、そういうことなのだろうと思います。

だとすれば、観たあとに私たちがモヤモヤするのは、深読みのしすぎではないのです。

何千年ものあいだ誰も解けていない問題を九十分で見せられたのですから、むしろ当たり前の反応だと思います。

 

現にこの映画は、いまも走り続けているのです。

公開二十四日の時点で興行収入は九十二億八千万円、動員は六百四十五万人を突破しました。

八月二十二日からは、入場者特典の第三弾の配布も始まるそうです。

夏休みが終わっても、まだ当分は話題が尽きそうにありません。

 

もし二回目をご覧になるなら、今度は歌の歌詞と、島二郎が出す貝汁のあたりを気にしてみてください。

一回目とは、まるで違う映画に見えるかもしれませんよ。